エンゼシアの架空鉄道

歴史

ここでは喜多夢良県全体の歴史や鉄道各社の歴史を扱っています。

各社略歴

未完です。お待ちください。

横沢電鉄

 横沢電鉄はいくつかの会社を前身に持つ。江那線と御ヶ崎線北部分は藤関鉄道によって1930年代に開業。中央部分は北村急行鉄道によって同じく1930年代に開業。南部分のうち栗宮以北は戸島川鉄道によって1910年代に開業した。藤関鉄道と北村急行鉄道との合併を以って横沢電鉄が生まれた。上記以外の路線は横沢電鉄の手で敷設された。特に藤関線は藤関鉄道時代から計画されていた路線であったが、1970年代横沢電鉄の時代に開通した。その多様なルーツから県内で唯一複数の軌道幅を有している私鉄ともなった。1960年代には大規模な改軌を実施し喜多夢良以南全線の標準軌化を果たした。

山中鉄道

 山中鉄道は紀之原高原鐡道を前身とし、双子山―西方の輸送を目論んで1920年代に設立された。双子山側では既に開業していた双岐鉄道と接続。西方側では軽便鉄道を買収する形で軌道網を広げた。1930年代には藤関鉄道をも手中に収め、過去最大の規模を誇った。しかしその後すぐ藤関鉄道は横沢電鉄と手を結び、戦後には紀之原高原鐡道自体が解体、双子山―西方の鉄道線を引き継ぐ会社として山中鉄道が発足した。

吾妻十万里湖鉄道

 吾妻十万里湖鉄道の設立目的は国鉄直岐駅から離れた横山市街へのアクセスで、1920年代に双岐鉄道の名で開業した。経営が安定すると東方面への延伸に関心を示し吾妻山への登山客輸送や十万里湖への観光客輸送にも乗り出した。そののち双子山-直岐の軌道線区間は藤関鉄道と北村急行の開業で利用減。戦後には本格的に観光客主体の輸送に転換し、1960年代吾妻十万里湖鉄道に改称した。

西方地方鉄道

 山中鉄道と同じく紀之原高原鉄道を前身とする。さらに元をたどれば西方拠点や清水拠点を中心に構築された軽便鉄道網である。国鉄線から離れた土地でありながら経営を軌道に乗せていた。戦後になると紀之原高原鐡道の軌道線部分を引き継いで西方地方鉄道が発足した。1960年代には裳津への本線延伸と関川線の開業で都市間輸送に参入。1970年代の終わりには西方の南部に進出し始め、江西線の延伸に注力した。西海岸の都市を鉄路で結んでいき、ついには御ヶ崎まで到達。県西部の有力私鉄となって現在に至る。

井我鉄道

 国鉄線田沢駅及び栗宮駅西側市街の旅客輸送を狙って1920年代設立。周辺の工業施設の労働者など利用客を獲得した。市内輸送には飽き足らずしだいに井我山地を越えた先の東海岸に目を向けるようになり、1930年代に資金面や技術面など幾多の困難を乗り越えて未開の東海岸琴浜へ到達した。県南東部を切り拓いた私鉄となり琴浜エリアの観光開発も功を奏したが、後に開業した横沢電鉄浜上線が競合路線となり苦しい経営を強いられている。

戸島川鉄道

 1910年代後半、国鉄線開通の数年後に開業した県内でも最初期の私鉄の一つ。北村-栗宮間と戸島川沿いにある工場群への労働者輸送が狙いであった。当初から安定して利益を得ていたが、双子山-北村を開業していた北村急行からの栗宮線買収の持ちかけに応じて同線を手放した。以来戸島川線のみを保有し、特段の延伸もなく現在に至る。香坂への延伸計画も存在したが頓挫。戸島川鉄道および有力私鉄、周辺自治体の出資で新たに喜多夢良メトロを興し、香坂線が建設されることとなった。

喜多夢良メトロ

 1980年代、香坂新都市計画に基づく交通整備の一環として有力私鉄や周辺自治体の出資を受けて設立された。設立当初は喜多夢良開発鉄道の名称であったが、2000年代に入って喜多夢良メトロに改称した。

稲葉鉄道

JR

その他年表

年号まとめ
全路線樹形図

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